「新聞小説、吉村昭『彰義隊』」読了

 読売新聞は、一時、連載している小説の作家を前面に出したテレビCMを流していましたし、日経は渡辺淳一の『愛の流刑地』を連載し、各方面からの顰蹙を買っているものの、実売数は伸ばしている、とのことですが、相対的に見れば、新聞小説を読んでいる読者は、それほど多くはないでしょう。

 そもそも、夏目漱石の一連の小説群にしろ、永井荷風の『墨東綺譚』、戦後も、石坂洋次郎の『青い山脈』にしろ、新聞小説でしたし、昭和の後期では、藤沢周平の『蝉しぐれ』も忘れられません。
 このように、近代日本文学を語るとき、新聞小説は決して、無視し得ない領域を構成しているのです

 あるいは、宮部みゆき新聞小説『理由』理由 (新潮文庫)は、直木賞も受賞したベストセラーですが、あの小説の読者のうち、新聞連載時に読んでいた方は、それほどの比率ではなかったはずです。

 それは、お目当ての作家でも細切れの連載で読むよりは、いっぺんに読んでみたい、という読者の欲求があるからでしょうし、どうせ、連載時のものから大幅に加筆したものを刊行するのだろうから、本になってから読もうと思うために、新聞に連載しているときには、読みたくないという読者もいるのでしょう。

 つい昨日、朝日新聞夕刊での連載を終えた吉村昭の『彰義隊にしろ、11月に朝日新聞社から刊行するときには、当然、加筆なり訂正をすることでしょう。

 それでもぼくは、極力新聞小説は読むようにしています。なぜならば、新聞小説は新聞社の学芸部が作家を人選し連載するために、自分の選好には決して当てはまらない作家の小説も、読む機会を与えてくれるからです。

 最近の例で言えば、篠田節子『讃歌』は、新聞に連載されなかったら、決して読もうとは思わなかったでしょう。

 こうして、新聞小説他律的だからこそ、自分の読書傾向からは決して読まないであろう作品まで読むことが出来る、優れたシステムだと、ぼくは思うのです。