「大阪府泉南地区合併レポート」

 今回の行政視察でうかがった泉佐野市のレポートを、以下に掲示します。
 なお、このレポートはHNKスペシャルを見て記したもので、泉佐野市への行政視察でのレポートとは、異なります。
 泉南地区の以前の状況を知っていただくために、掲示するものです。

1、泉佐野市は、この5市町のうちでは最多の税収があり、都市としての基盤も整備されている。ただしその基盤整備は、関西国際空港(以下、関空)の開港によってもたらされるものと予測された新規需要を見込んでのものであって、大半は中央政府からの借金によって建てられた公共施設である。
ところが実際には関空が開港しても、新規需要は予測を大きく下回ったために、同市は多額の負債に喘いでおり、合併によって増える税収によって、その債務負担の軽減化を目論んでいた。
 泉南市は、自治意識が盛んな土地柄を反映し、市有地である墓地を地元の住民が自ら管理運営する実態がある。ところが、合併後はその墓地の運営が新市に移行され、以前からのような自主管理を続けられなくなることを地元住民は恐れている。
 阪南市は、6万人の人口はあるものの、市内に大企業がないために、多くの法人税収入は望めない。そのために市長が率先して行政の無駄を排除しており、市立病院もその例に漏れず、不採算部門の産科は廃止した。しかしそれも限界に近づきつつあり、もっと経費を削減して老朽化した市立病院を自力で建て替えるか、それとも、合併して他市の病院を利用するか、難しい選択を迫られていた。
 田尻町は、狭い町域ではあるものの、同町がその一部を担う関空からの税収に恵まれ、現在は健全財政を維持している。ただ、空港からの税収は減少しており、健全な財政を維持している今のうちに合併して、合併後の新市でのイニシアチブを握ることを夢見ている。
 岬町は、老齢化が進み、今後もそれがより一層顕著になることが容易に予想されるため、税収の減少を合併によって緩和させることを望んでいる。
 以上概観したように、いずれの市町も、そのうちの3市町にまたがる関空開港によって、新たな需要の創出が見込まれることを中央政府から説明されていたために、それを無批判に鵜呑みにした結果、地方交付金によって多くの総固定資本は形成されたものの、新規需要の当てが外れ、多額の負債に苦しんでいる。
 その逆境を、特例債目当ての合併によって脱出しようとしていた。
 多額の負債に関して言えば、中央政府の甘い見込みを鵜呑みにした自治体にも、当然責任の一端はある。

2、住民自治の原則から言って、住民の発意による合併であるならば、賛成者が過半数を占める限りにおいて、何人もそれを阻止することはできない。
 翻って、この南泉州地区の結果的に挫折した合併は、住民の発意によるものであったのかどうか。テレビで見る限り、とてもそのようなものには、見えなかった。
 合併特例債欲しさに、財政悪化を緩和させるために先ず、合併ありき、という行政側の都合があるために、行政による住民への説明会で行われた、行政と住民との遣り取りでは、あたかも合併が既定路線であるかのような立場で行政側は説明していた。
 そこに垣間見えたのは、『論語』泰伯にある、「民可使由之、不可使知之」由らしむべし、これを知らしむべからず、と言う故事を思い出させる、行政による説明責任の放棄である。

3、2、でも触れたように、中央政府が自らの財政赤字ファイナンスするひとつの手段として、今日三位一体改革を推進しているのではないか、とそんな疑心を生むほどに、この合併は、行政組織によるいわば、押し付けた合併のように、テレビを見る限りは感じられた。
 その際の押し付けとは、中央から地方への押し付けであり、もうひとつは、行政から住民への押し付けという、二重の押し付けの構図を描く。
 そこでの説明は、財政事情が悪く、これからはもっと悪化することが予想されるので、行政地域を合併によって広域化させ、中央政府に頼らない足腰の強い、行政組織をつくろうという志向性が見える。
 しかし、広域化して問題が解決するのならば、極端に言えば、日本を単一の地域にまとめてしまえば、これほど効率的なことはない。
 けれど、そもそもの地方分権とは、その地域ごとに異なる地方特有の問題を解決させる際に、各地域で解決するほうが住民にとってより有利に働くという発想によるものではなかったのか。
 ところがそこでは、地方自治という名のもとに、中央政府から見捨てられる地方、という構図が垣間見えた。
 直截にいえば、今回の地方分権は、中央政府の財政状況が悪化したために、地方に権限を移譲するという美名のもと、実は地方の切り捨てが実行されている、というスキームが明確になってきたように思われた。
 つまり、財政状況の悪化は本来望ましい事態ではないけれど、それを解決する手段としての合併には、どうしても住民は納得できなかったので、合併は失敗に終わったのではないのか。

4、行政が住民に合併に関して説明するその説明の仕方に、どうしても違和感を抱かざるを得なかった。
 そこで行われた説明は、説明という名の、行政にとって都合の好い路線への、住民意思の誘導ではないか。
 またそこで行われたのは、合併理由の第一義である合併特例債の獲得という理由を隠し、合併しないと蒙る不利益のみを強調する姿勢であった。
 それをすべての住民がはっきりと自覚したわけではなかったのかもしれないが、行政のウソを本能的に住民は察したのではなかったのか。
 このような搦め手の説明は、すでに使い古され、もはや住民も安易に騙されることはなくなった。
 今回の事例は、その良き例証ではないのか。
 そもそも、平成の大合併によって3,232あった市町村は、その4割以上が姿を変え、1,822にまで減ろうとしている。
 ところが、これは他の先進諸国に多く見られる現象とはいえない。
 たとえば、米国では人口が二桁の村が3,000以上ある。
 フランスは自治体が36,000以上あり、これはフランス革命当時とほぼ同じ数を維持している。
 イタリアは約8,000。
 そしてその小さな自治体がそれぞれ、成り立っているのだから、日本のように、合併を促進し、地方分権市町村合併というパラダイムは、どうやら日本独特のもののようであって、決してグローバライゼーションと軌を一にする動きではない。