「『教育文化政策論』発表リポート」

 昨日、一橋大学大学院の授業『教育文化政策論』で発表したリポートを転載します。
 ご興味のある方は、どうぞ、ご覧下さい。なお、最終締め切りは、2月7日のため、未定稿です。

一橋大学大学院「特殊講義(公共法政)教育文化政策論」期末リポート
課題:「日本のこれからの大学教育に関する一考察」
解決策:日本の大学も形態別に分類することによって各大学の存在理由を明示させ、以て受験生に大学を受験する際の明確な指標を付与する。
目次
はじめに
1、アメリカの大学
1-1、一般的な大学分類
1-1-1、カーネギー分類
1-1-2、一般的な大学分類
2、日本の大学
2-1-1、日本の大学の分類
2-1-2、四六答申
2-2-1、大学の一般教育
2-2-2、日本の高等学校の設置基準
2-2-3、日本の大学も分類化してはどうか
3、予想される反論

はじめに
 「「生徒が先生から言われて一番うれしい言葉は何ですか?」という問いに対して、その答えは、「頑張ったな」でもなく「よくできたぞ!」でもない。「今日はこれで終わり」である」 。
 これは、このエピソードの紹介者である間中が、高校で教諭をしていたときに仕入れたネタだそうであるが、同書で「大学生たちも同じ思いをもっている」 と記しているように、「大学全入時代に突入した現在、定員確保の見返りに学習習慣のない学生を受け入れる(中略)大学」 が増えているようである。
 それと同趣旨のことを、2011年3月まで神戸女学院大学で教授をつとめていた内田樹(現名誉教授)は、次のように記している。
 「イマドキの受験生はたしかに教養はなく、学力も低い。それゆえ、それに対応して教育プログラムを下方修正することは避けがたい。しかし、それは大学を高校「並み」にするということではないはずだ。というのは、これまでの大学の教育的機能は依然として大学が担わなければならないからだ。それを代替してくれる教育機関は存在しない。である以上、これからしばらくの期間、大学は四年間で「中等教育と高等教育」を同時に行うという、空前絶後、前代未聞の教育機関としての歴史的使命を(願わくば暫定的に)担ってゆかなければならない」 と慨嘆している。
ここで、日本の18歳人口の高等教育機関(大学・短大・高専・専門学校)への進学率をみると、2011年には70.4%に達したことがわかる 。これは、教育学者マーチン・トロウがいう同年齢の若者の過半数が高等教育機関に進学する、「ユニバーサル」段階に達したことを意味する 。その結果、今日の大学では、それ以前までは大学に入学しなかったと思われる学力層の学生も多く含まれているもののようである 。それを寺崎昌男は、「高等教育の「大衆化」」 と称している。
 つづけて同書において内田樹が指摘するように、「私たちには模倣すべきモデルがなく、にもかかわらず、成し遂げなければならない仕事が山積している。明治以来、日本の大学がこれほどまでにおのれの社会的機能について熟慮しなければならない時期」はなかったと思われるが、このような時代にいたった日本の大学はこれから、広く社会に資する高等教育機関として、どうあれば有効に機能することができるのか、それを考察することが本リポートにおける課題である。
 また、日本国内の大学では1970年代後半から、大学の入学試験改革が行われており、その一環で、大学共通第1次学力試験(共通一次試験)の導入、アドミッションズ・オフィス(AO)の創設やそれにともなうAO入試、あるいは社会人入学試験の導入等、試験の多様化が図られている。このように、さまざまな方策のもとに多種類の入学試験が行われているところであるが、そもそも入学試験を受ける際に、受験生は何を基準にして受験校をきめているのであろうか。
少なくない受験生は、今日でも偏差値をもとにして受験する大学を選んでいるものと思われるが、それが、はたして、受験生と大学の双方に資することなのであろうかといった視角からも考えてみたい。
 その際、大学もまた、今日みられる他のじつに多くの事象とおなじように、国際性を無視しては考えられないという視角もあわせて用いることが重要視されよう。
 なぜならば、「日本の大学は順位が近い外国の大学に比べて、この値 が格段に低い」 との指摘があり、この現状はネガティヴにとらえられるべきものと筆者は考えるからである。
 そこで、第1章では、世界の大学制度においてデファクトスタンダードの一つであるアメリカのそれは、日本の大学制度とは異なり、大学の設置基準が明確に分類されているもののようであるが、それはどのようになされているのかをまず概観してみたい。
 第2章では、日本の大学に上記のような分類という概念は、どのように位置づけられているのかをみてみたい。
 最終章では、筆者の立論に対して予想される反論を設定した後、それに対して立論の正当性を主張したい。
1、アメリカの大学
 「「欧米の大学に比べて日本の大学は劣っている」といった形での比較が、明示的にせよ黙示的にせよ、なされ」 ていることを踏まえて、本リポートではまずアメリカの大学を概観することによって、彼我の違いを明らかにしたい。
1-1、一般的な大学分類
1-1-1、カーネギー分類
 「大学の分類に関する学術的な調査は一九七〇年代初頭から継続して行われ、アメリカの高等教育に関して数々の専門的な調査を行い、水準の高い分析とデータを公表している」 カーネギー教育推進財団(The Carnegie Foundation for the Advancement of Teaching)の調査(2002年)によれば、全米の大学数は、3,942校あり、それを下図のように分類している。
表1-1 カーネギー分類によるアメリカの大学
カテゴリー 数       割合(%)
博士号授与・研究大学(Extensive;多領域的)
博士号授与・研究大学(Intensive;少領域的)

修士号授与大学(?)
修士号授与大学(?)

学士号授与大学(リベラルアーツ
学士号授与大学(General;一般)
学士号・準学士号授与大学

準学士大学(日本の短大にほぼ相当)

単科大学(Specialized Institutions)

先住民大学(Tribal Colleges and Universities) 151         3.8
110         2.8

496        12.6
115         2.9

225        5.7
324        8.2
57        1.4

1669        42.3

767 19.5

28        0.7
合計 3942       100.0
 上図表で最初にあげられているのが、博士課程・研究中心大学(Doctoral/Research Universities)というカテゴリーで、その大部分は、カーネギー財団の旧分類をもとに「研究大学」(Research Universities)とされてきたもので、アメリカのトップクラスの大学がそこに含まれる。
 このうち、「多領域的」とは、15以上の学問領域にわたって毎年50人以上の学生に博士号を授与している大学を指し、「少領域的」とは、研究領域を複数もつものの、そのような領域が3から14であるか、毎年の博士号授与が20以上50未満に限られる大学を指す。
 第二のカテゴリーは、修士課程大学であり、4年制大学のなかではこの分類に入るものの数が最も多い。ただ、これも二つのカテゴリーに分けられており、一つは修士課程大学?で、もう一つは修士課程大学?である。それらは、3つ以上の学問領域を有し、修士号授与数が40以上あるかないかで分けられている。
 第三のカテゴリーは、日本風にいうと学士過程大学で、基本的に大学院をもたず、かつ4年制の学士過程をもっている大学である。
 この第三のカテゴリーに入る大学はさらに3つのサブカテゴリーに分かれる。その第1は、リベラルアーツ系である。第2は、一般系で、リベラルアーツも重視しているものの、職業準備的なコースにも注力している大学である。第3は、学士号も出すものの、学士よりも下の学位の方を多く出している大学である。
 第四のカテゴリーは、主として二年制の大学である。
 第五のカテゴリーは、単科の大学および教育機関である。大学院をもっているものもあり、具体的には、医科大学、歯科大学、ロースクールなどである。
 最後のカテゴリーは、アメリカ先住民大学といわれる機関であり、いわゆるインディアン諸部族が主としてその居留地内に設立している大学である。
1-1-2、一般的な大学分類
 上記「カーネギー分類以外にも、アメリカにはいくつかの大学分類がある。そのなかでも、大学関係者の間で最もよく言及されるのが、研究大学と教育中心大学の区別および全国大学と地域型大学である」 とされる大学の分類法もある。
 このように、アメリカの大学は、いくつかの分類法があり、それに準じて大学がいくつかのカテゴリーに分けられていることが明らかとなった。
2、日本の大学
2-1-1、日本の大学の分類
 前章では、アメリカの大学はたとえば、カーネギー分類といった方法で分類されていることが確認されたが、日本の大学では、なんらかの方法で分類されているのか、あるいは、いないのかを考えてみたい。
2-1-2、四六答申
 大学の機能に応じた大学分類については,さまざまな形で過去に提言されてきている。
たとえば、1971年(昭和46年)の中央教育審議会第二十二回答申(いわゆる四六答申 )において、大学(現在の学部相当)、短期大学、高等専門学校、大学院(現在の修士課程相当)、研究院(現在の博士課程相当)という5種の高等教育機関の種別化が提言されている。
この前年の1970年(昭和45年)には、4年制大学進学率が17.1%、短期大学進学率が6.5%であったことから、大学進学率だけをみればこの時期は、先にふれたマーチン・トロウによる高等教育モデルにおける、エリート型(〜15%)からマス型(15〜50%)への移行期に相当し、それにあわせて日本における高等教育機関の分類化が意識されたために、このような内容の答申が行われたものと考えられる。
ところが、そのうち、その他の教育の質の改善に関連する事項については、答申に沿った取り組みが行われたものの、「四六答申」の中の学校体系の先導的試行や高等教育の種別化等については、実施されることはなかった。
ただ、「このような大学の種別化は、その後の大学審議会などの答申でも引き続き提言されている。たとえば、「21世紀の大学像と今後の改革方策について」(平成10年10月)においても、大学を、総合的教養教育、専門的職業能力育成、地域社会の生涯学習機会提供、最先端研究という機能分類と、学部中心、大学院中心という種別分類とを提示しつつ、大学の多様化・個性化の重要性を指摘している。しかし、残念ながら、同じ内容の提言が繰り返し行われていることからわかるように、このような種別分類は今もってなお不明瞭なままである 」というのが、日本の大学における種別化の現状である。
2-2-1、大学の一般教育
 日本の大学に、それまで正式に位置づけられることがなかった一般教育が、本格的に導入されたのは、戦後のことである。それに関して、下記のような指摘がある。
「日本では、アメリカにおける学部教育というと職業教育に重点を置いた実学が中心だと思っている人が多い。そして、そのアメリカに見倣って、学生が社会に出たあと即戦力となるよう、実践的な要素を重視して学部教育を見直していくべきだ、というたぐいの議論が盛んである」 。「しかしながら、アメリカでは、実は、非実学的な学部教育がどちらかというと主流に近いのである」 、という指摘がある。
 これに関して、上原専禄(当時・東京商科大学−現・一橋大学)学長による1948年執筆の論文に、次にみるような指摘がある。
 「大学においては、分割せられ小細分させられた一学問領域における自他の研究分野を―近接分野におけるそれとの内的交渉を顧みることなく、いわんや人間又は自然の解明一般におけるその地位を省察することなく、ましてや聴く者の自然感覚や人生態度の内奥に働きかけようとする用意もなく―、学生たちに対してただ機械的に口授するに過ぎない場合が多かったのではなかろうか。これは擬似専門教育における一般教育意識の欠如現象である。
 他方、一般教育の領域においては、専門教育や職業教育との内的連繋が深く予想せられているわけではなかった。
 そこではただ人文や自然に関する伝習的知識を―研究者たり、社会人たり、実際人たるに適わしい素質と性能、見識と心情、それらを培養せんとする真摯な意図や工夫を凝らすことなく―単なる知識として学生たちの頭脳の一隅に注入するに過ぎぬ場合が稀れではなかったのではなかろうか。これは擬似一般教育における専門教育意識の欠如現象であろう。」
 これに関して、寺崎昌男は、「戦後の新制大学の創立当時の少数の大学人たちは―大学教育の再生の希望をこの一般教育の導入の局面に賭けた」 と記し、一般教育の導入が日本の大学に、大正期以来50年ぶりの歴史的反省のきっかけを与えたのであった。
 それは、昭和前期までのいわゆる旧制大学の時代とは異なり、「アメリカ型の大衆的な大学像を取り入れて、旧制の高校、専門学校、師範学校等からの大量昇格を含め、一挙に数多くの大学が設立された」 ことに伴い、日本の大学を旧制高等学校予科の上部組織としてのものではなく、単独の高等教育を行う機関として成立させるために必要とされた装置なのであり、アメリカの大学におけるカーネギー分類でいえば、第三のカテゴリーが日本の大学に創出されたことを意味した。
 「この時点で大学は超エリートの学校から一般社会のリーダーの学校となった」 といえるのである。「そして今日、〈新・新制大学〉の時代を迎えようとしている。」
 戦後の〈新制大学〉とは異なる、〈新・新制大学〉があらわれたことで、日本の大学も新たな段階に入ったといえるのではないか。
 そうした際に、日本の大学は、それに応じて新たな装置を施行しなければならない、というのが筆者の考えであり、それを次節で採り上げたい。
2-2-2、日本の高等学校の設置基準
大学について考える前に、日本の高等学校を概観してみたい。すると、高等学校には、学科がおかれていることに気づく。それに関して、高等学校設置基準によってその現状をみると、その5条により、学科の種類は次のとおりに定められている。
5条 高等学校の学科は次のとおりとする。
一  普通教育を主とする学科
二  専門教育を主とする学科
三  普通教育及び専門教育を選択履修を旨として総合的に施す学科
 5条1号の学科は、いわゆる普通科を意味する 。同条2号の学科は、注に記すように、多様な学科からなる 。また、同条3号の学科は、総合学科とよばれている 。
つまり、日本の高等学校は、「世界に例を見ることができない」ほどに「細かく多様化され細分化され」 ている特徴を有していることに気づく。
それに比して、アメリカのハイスクールは、96%が総合制の学校であることから、アメリカと比べた場合、いかに日本の高等学校が多様性に富んでいるかがわかる。
2-2-3、日本の大学も分類化してはどうか
 そもそも「大学等が個別に行う入試は、高等教育機関の特色に応じた学生を採用するのが本来の目的である」 と思われる。
 その際、重視されるのは、高等教育機関が学生を選ぶことと同時に、志願者も希望する高等教育機関を選べるようにすることであろう。
 そこでは、「「選抜」から「相互選択」への転換」 が、図られなければならない。「大学が学習者を選び、学習者が大学を選ぶという、より良い相互選択である。そのためには、大学側は自らの教育理念に基づき、どのような能力・適性・目的意識・意欲を持った学習者を望むかの「入学者受け入れ方針」を明示し、学習者側は自らの能力・関心・適性・意欲に基づいて大学を選択し、相互の対話で入学を決めていく」 ことが重視される。
 それに関して、現今、多くの大学では、HPやパンフレット等で、自校のアドミッション・ポリシー(入学者受入方針)を明確化し、広く告知している。
 しかし、それでもなお、日本のほとんどの大学では、たとえば、アメリカの大学におけるカーネギー分類のように、研究中心の大学なのか、それとも学士過程教育を重視している大学なのか、わかりにくいものとなっている。
 その結果、大学受験の際に、偏差値だけを物差しにして受験し、入学後、その大学が研究中心であり、幅広い職業教育を望んでいたのに、それがかなえられず、失望するといった学生が現実にいる。
 それは橘木俊詔が、「戦前のように能力の高いごく一部の学生だけが大学に進学していた時代と、現代のように大学が大衆化した時代にあっては、大学教育の発想を大きく変更せねばならない。旧来の学問中心の大学ではなく、社会人になった際に役立つ技能の徹底的習得を第一義とする大学の数がもっと増加してよい」 と指摘するように、筆者もまた、帝国大学令にある「国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攷究スル」帝国大学と現今ある多くの大学とは、隔絶した存在だと認識しているからである。
 上記の観点から、日本の大学にも、アメリカの大学にあるような、たとえば、研究を重視している大学であるのか、あるいは、リベラルアーツ教育を重視している大学なのかといった観点による分類法を適用することによって、大学を分類することを提案したい。
大学の分類は、大学にも資するところがあると考える。そのことによって大学は、現に今ある高等学校のように多様性を確保することができ、分類された大学はそれを明示することで、その大学の教育方針に則った学生が受験することとなり、大学は自らのポリシーに沿った学生を受け入れることが容易になると予測できるからである。
 以上の提案を行った理由は、今まで述べてきたように、「少子化によって大学進学人口が減少しているので、各大学は学生数を確保するのに躍起になっている。一部の有名な国立・私立の大学をのぞいて、学生の奪い合いが深刻さを増している折、大学の特色をもっと前面に押し出すことが必要な時代になっている」 との認識を、筆者が有していることによる。
3、予想される反論
3-1、大学は今でも分類されている
 筆者が、提案するまでもなく、すでに日本の大学は事実上、分類されているとする反論。
3-1-1、大学は今でも分類されているとする反論に対する反論
 たしかに、日本の大学をすべて一様のものと認識している方は少ないものと思われる。
しかし、それは日本に住んでいれば、黙示的にわかることであって、いわばデファクトスタンダードと考えることができるが、筆者はそれをデジュリスタンダードに変えた方がより明示的になると考えるのである。つまり、大学を、今ある高等学校が分類しているように、大学設置基準において、明確に分類化すべきであると考える。
また、すでに指摘したように、現今の日本の大学は、国際化において世界の潮流からは遅れているところがあるが、大学を分類化することによって、その大学がどのようなものであるのか、そのポリシーが外国にいる方々にも明示化される。その結果、外国からの受験生が増加することが予測できるので、大学にも資するところがあると考える。
3-2、大学を分類することで序列化が促進されるのではないか
 今でも日本の大学は偏差値によって、序列化されているのに、分類化すれば、なおいっそう大学の序列化が促進されてしまうのではないか
3-2-1、大学を分類することで序列化は促進されずむしろ存立基盤が確固とする
 日本の大学を分類しないと、東大を頂点とする序列化を阻むことには無理がある。むしろ、分類することで、その大学の特性が明示されることとなる。たとえば、研究面では東大に劣るかもしれないが、有能な技能を修得するうえでは、東大をはるかにしのぐ教育を授けることができるといった実績をアピールすることができるようになる。
 これは、「現在では一昔前のように、企業が新入社員に技能を授けるような時代ではなくなっている」 という時代認識にもマッチしたものといえよう。
3-3、大学を分類する場合、どのように分類するのが有効なのかが不明
 大学を分類する場合、どのように分類するのが有効なのか、不明である。
3-3-1、たとえばアメリカで用いられているカーネギー分類も一つの方法である
 それに関しては、アメリカの大学で用いられている分類法を用いるのも一つの方法であって、先例があるのだから、それを参考にすればよいものと考える。

【参考文献】
J.S.ミル著竹内一誠訳『大学教育について』(岩波書店、2011年)
マーチン・トロウ『高学歴社会の大学』天野郁夫・喜多村和之訳(東京大学出版会、1976年)
寺崎昌男「日本の大学」−歴史と改革課題−(佐伯胖・黒崎勲・佐藤学・田中孝彦・浜田寿美男藤田英典編集『岩波講座 現代の教育−危機と改革−第10巻 変貌する高等教育』(岩波書店、1998年)所収)
寺崎昌男『大学教育の創造』−歴史・システム・カリキュラム(東信堂、1999年)
佐藤学 『教育改革をデザインする』〈シリーズ教育の挑戦〉(岩波書店、1999年)
梶田叡一『新しい大学教育を創る』全入時代の大学とは(有斐閣、2000年)
谷聖美『アメリカの大学』−ガヴァナンスから教育現場まで−(ミネルヴァ書房、2006年)
ドナルド・ケネディ著立川明、坂本辰朗、井上比呂子訳『大学の責務』(東信堂、2008年)
橘木俊詔『早稲田と慶応』−名門私大の栄光と影(講談社、2008年)
斎藤里美、杉山憲司編著『大学教育と質保証』−多様な視点から高等教育の未来を考える(明石書店、2009年)
清水亮、橋本勝、松本美奈編著『学生と変える大学教育』FDを楽しむという発想(ナカニシヤ出版、2009年)
内田樹『街場の大学論』ウチダ式教育再生角川書店、2010年)
西島建男「大学再生の道−二一世紀の高等教育」(永井憲一監修『憲法から大学の現在を問う』(勁草書房、2011年)所収)