「芭蕉」
松尾芭蕉のことです。
たまたま昨日の大学院での講義「日本研究・日本文化論」(内藤明教授)で、桑原武夫の「第二芸術論」についてのレクチャーがあったので、四方田犬彦(明治学院大学文学部芸術学科教授⇒http://www.meijigakuin.ac.jp/~art/prof/yomota/index.html)が『図書』(岩波書店)に連載している「芭蕉」(2007年7月号)を再読しました。
いやぁ、芭蕉は改めて凄い、ことに気づかされました。
四方田は、俳諧一般について、次の3つのフェイズで分裂しているというのです。
1)句が成立した状況や、それが典拠としている過去の詩作品を渉猟し、できるだけ多くの知識を前提とした上でテクストに臨みたい。
2)起源への意志をめぐる欲望の一切をあえて封じ込め、テクストに喚起されるまま、こちら側の想像力を自在に飛翔させてみたい。
3)いかなる遡及的解釈も歯が立たず、詩的空間という空想が単なる感傷に堕してしまいかねない類の句。
京にても京なつかしやほとゝぎす
この句を四方田は採り上げて、“芭蕉の句を読むとは、けだしこうした複数の水準にあって、読む主体の分散と散種を生きることではないだろうか。”と記しています。
たしかに。
ただし、四方田の悪い癖で、読みにくい文章ですが。