「議会改革調査特別委員会&読書会」

 今日は、午前10時から議会改革調査特別委員会が開かれ、らん丈は、副委員長として出席しました。

 午後は、司馬遼太郎の『この国のかたち』を読む読書会に参加しました。
 担当のらん丈が作成したレジュメは、下記の通りです。

司馬遼太郎『この国のかたち』六 (文春文庫、頁数も同書による)
「役人道について」より 「長州藩における平等の忠誠心」「「アジア離れ」と汚職の追放」「日本の厳格な役人道」          担当:三遊亭らん丈

長州藩における平等の忠誠心」220‐223頁
○江戸封建制の特徴のひとつは、藩主の自然人としての権威・権力が、時代がくだるに従って抽象化してゆくということ。
 例として、幕末の長州藩は、完全な法人となっており、藩主は象徴的な存在に過ぎなかった。
 毛利の殿様は、「君臨すれども統治せず」(ヴィクトリア(Alexandrina Victoria, 1819年5月24日 - 1901年1月22日)は、イギリスの女王(在位:1837年6月20日 - 1901年1月22日)、初代インド女帝(在位:1877年1月1日 - 1901年1月22日)のひとつの実践例と考えられる。
 自然人である、藩主よりも、法人である長州藩の方が、一層大事だと考えていた。
 桂小五郎木戸孝允)は堂々たる士分でありましたが、元来、足軽身分とも言いがたかった時期の伊藤俊輔(博文)に対し、「君と僕とは対等である」として上下の礼をとる必要がない、といっています。

木戸孝允
1、「維新の三傑」の一人。西郷隆盛大久保利通
 木戸孝允、1877年明治10年5月26日数え年45歳で、最も早く、最も若く、そしてただ一人だけ畳の上で死んだ。因みに、孝允を「こういん」と読むのは、「有職読み」の一種。
 「有職読み」とは、敬うべき古人の実名(諱)を音読みにして敬意をあらわすこと。東アジア共通の風習として、人の実名を直接口にすることを忌む風習(忌諱)が見られるが、これがいっそう鄭重な慣習となって、特に敬意を表すべき古人に対して、その名を本来の読みかたである訓読みからはなれて、音読みでとなえることが行われた。あくまでも習慣なので、「木戸孝允がキドコウインと呼ばれて西郷隆盛がサイゴウリュウセイと呼ばれない」ように、呼ばれるか呼ばれないかに一定の基準があるものでもない。

2、1833年天保4年6月26日長門国萩呉服町江戸屋横丁の和田昌景(まさかげ)の長男として生まれた。以下の記述は、主に、大江志乃夫『木戸孝允』(中公新書、1968年)による。
 萩城の外郭に一番近いあたりに、藤田伝三郎の宅跡がある。
 藤田伝三郎は、明治の政商。阪堺(ハンカイ)鉄道(南海電鉄の前身)、山陽鉄道国鉄に吸収)、宇治川水力電気(関西電力の前身)、三和銀行(現在の三菱東京UHJ銀行)を創設。東京別邸は椿山荘(山県有朋から藤田財閥の二代目当主藤田平太郎男爵がこれを譲り受ける)、箱根別邸は箱根小涌園、京都別邸はホテルフジタ京都に衣替えし、いずれも現在、藤田観光が経営する。
 この呉服町から入った横丁筋に武家屋敷が残っている。城に近いほど家格が高かった。
高杉晋作田中義一の宅跡は、外堀に一番近かった。小五郎の生家や明治の外交官青木周蔵の生家は、これに次いで外堀に近かった。
 青木周蔵。その曾孫が青木盛久。ペルー日本大使公邸占拠事件で一躍有名になるも、その後、通常は2国目の大使になる際は「格上」の国の大使に就任するのが慣わしだが、1998年に駐ケニア特命全権大使という「格上」とは言いがたい国の大使に任命され、事実上左遷されたと評価される。
 つまり、和田家は、毛利家臣団のなかでは、比較的に高い位置づけをもっていた。
 これと較べると、桂太郎の宅跡は尾の先端に近いところ、山県有朋宅跡は、もっと離れ、吉田松陰の生地や伊藤博文旧宅は、もっと外れたところにあった。
 小五郎は、正景の後妻の子。父昌景の54歳のときの子であり、すでに和田家には跡継ぎがいたため、その隣家の桂孝古(たかふる)という百五十石取りの家の養子となる。
 その家柄は、桂姓が毛利と同じ大江広元十世の孫に由来し、孝古家はその六代あとが別家したものであると伝えられるならば、和田家の祖は、おなじ大江広元を始祖とする毛利元就の七男天野元政も四世の孫が創始したと伝えられている。いわば、同族の出身。
 小五郎は、桂家の仮養子となったわずか20日足らずで、養父孝古は死亡。その後、正式に小五郎が桂家を継いだが、末期(まつご)養子は減知という藩の定めによって、桂家は百五十石から九十石へ減知のうえ、8歳の小五郎が当主となった。
 末期養子とは、江戸時代、武家の当主で嗣子のない者が事故・急病などで死に瀕した場合に、家の断絶を防ぐために緊急に縁組された養子。
 翌年養母も死するにおよんで、小五郎はれっきとした九十石取りの中士の家の当主のままで、実家の和田家に引き取られ、養育される身となった。
 こうして、小五郎は医家の子弟として育ち、藩士桂家の当主でもあり、身分的には恵まれていた。
 小五郎は少年時代、文武に決して抜きん出ていたわけではなかった。
 転機をもたらしたのは、吉田松陰との出会い。

3、『日本史探訪』第13集(角川書店、昭和50年)福田善之城山三郎の対談
〔勤皇の志士〕
城山:日本人に人気がある条件は、第一に気概があるということ。第二に、義理人情に厚いこと。最後に、悲劇的な死に方をすることですね。ところが、こういうものが全部、木戸にはない。
 木戸にとっては、気概ということより、むしろ効果判断が先行する。(中略)でも、ほんとうに事業をやるのは、やっぱり大久保的な、実務家的な政治力と、木戸のような、そういうものに曇らされない先を見る力が大切ですね。
〔芸者幾松との恋〕
 勤皇、佐幕と血で血を洗う激動の京都市中へ、乞食に姿を変えて潜入し、情報収集にたる桂小五郎は、幾松がひそかに橋の下へ落とした握り飯でわずかにその飢えをしのいだ。
 当時の小五郎は、斎藤道場の塾頭で、剣の腕も非常に立つ。しかし、一回も人を斬ったことは無い。
 また、非常に育ちもいい。
 理想も持ち、開明性がある。
 そんなところに、幾松が惚れたのではないか。

〔志士誕生〕
 17歳で吉田松陰に師事したことが、のちの小五郎の行動に、松陰の門人たちの間で、重きをなす理由となった。
 江戸に出て、斎藤弥九郎道場に入門し、たちまち、塾頭となった。
 その年に、ペリーが黒船四隻を率いて浦賀に来航した。こうして、若き剣術家桂小五郎は、いつしか長州藩勤皇派の一方の雄に変貌していた。

〔逃げの小五郎〕
 新撰組による池田屋襲撃事件、禁門の変のいずれも、小五郎は、口実を設けて戦闘に参加しようとしない。
 そのため、いつの頃からか、「逃げの小五郎」の汚名がついてまわる。
城山:「逃げの小五郎」といわれても、その次になにをやったらいいのか、そういう判断を毎日やっていた。

〔志士の世界〕
 志士の力、志士の行動の無益さを非常にクールに見ていた。

薩長聯合〕
 アメリカ、イギリス、フランス、オランダ4国による、馬関戦争の敗北により、それまで攘夷の急先鋒だった長州藩は、この敗北を契機に開国の立場に移る。
 尊皇攘夷から尊王倒幕へと方針を転換。
 その時、桂小五郎が6ヶ月ぶりに姿を現す。そうして、薩摩藩に入り、西郷隆盛大久保利通らと会見し、その後、仲介役の坂本竜馬を含めて、薩長同盟が成立。
 そこで詠んだ歌。梅を長州藩、桜を薩摩藩になぞらえて。
  梅と桜を一時に咲きし
   さき志花中のその苦労

〔木戸派官僚群〕
 木戸が敷いた路線というのは、日本を近代国家にしていくのにいちばんあとあとまでも正しかった路線です。
 中央集権にし、版籍奉還し、そして徴兵制にし憲法をしくということ、つまり、明治国家のたどるべき路線を、早くから見抜いて、ちゃんとそれをプランに乗せていたということでは、いちばん先を見る目があった近代人ということでしょうね。
 木戸派官僚群として、渋沢栄一井上馨伊藤博文を抱えて非常に近代的な政治家だった。
 ところが、理想家だった木戸は、つい細かいことをいうため、伊藤を始め、離れて大久保の方へといってしまう。