「『障害者福祉論』読書レポート」

 今日は、早大社会科学部の専門科目『障害者福祉論』の講義がありますが、その際提出する、読書レポートを掲示します。

桐生清次障害者雇用のパイオニア・渡辺トク伝』(ミネルヴァ書房

「第一章 どんなにつらくても」
 本書の主人公、渡辺トクは、明治43年に、現在の福島県伊達市に生まれた。生家は養蚕業を営む、封建的な大家族で、村では最も大きな養蚕農家であった。
 トクは7人の兄弟姉妹の下から数えて2番目で、幼年時代はトクが女性ゆえ母乳を与えられることはなく、実母の母乳は男性というただそれだけの理由で、同居していた叔父の長男にまわされ、代替の米汁で育ったためか、体が弱かった。
 トクは小学校を卒業すると、大正11年に福島の女学校に入学し、そこでの成績は優秀だった。大正デモクラシーの影響からか、トクは、弁護士を希望するが、家族は反対し、新潟の渡辺家への嫁入りをトクには内緒で決められてしまう。
 嫁入りした渡辺家も、生家と同じように姑が実権を握っており、封建的な家風で、トクは苦労が耐えない。夫は新潟師範学校を卒業した、小学校教諭だった。
 姑に迫害を受け続けるトクを見かねて、舅とトクの両親の斡旋で、姑には内緒でトクの夫を朝鮮の学校に赴任させ、それに従うかたちをとってトクも朝鮮にわたらせる。
 9年後の昭和14年に、新潟へとトクは戻ってきた。渡辺の家は、家業の布テープ工場が順調だったが、昭和19年に舅が、続いて翌年姑が亡くなる。

「第二章 福祉への道」
 家業を継いだ夫は、教師だったせいか商売は性に合わなかったものの、社会奉仕的な活動には積極的に参加した。
 夫の推薦で、それまで思ってもみなかったPTAの司会をトクは任せられる。
 その活動を通して、「母と女教師の会」や県教職員組合の新潟支部婦人部長を勤める山岸千枝とトクは知り合う。
 「母と女教師の会」の活動で、ある夜、歯科医の診察室にトクがいると、歯痛を起こした脳性マヒの子を、世間体を気にするあまり夜になってからやっと、背負って診察に訪れた母親に出会う。
 その母親の気持ちを思うと、トクは床に就いてもなかなか眠ることができなかった。
 そんなトクはいつしか、児童憲章にある、「すべての子どもに教育を」というスローガンや、日教組婦人部の目標「すべての子どもを幸せに」が、到底かなえられていない現状を意識するようになる。
 トク夫婦は長男に家業の布テープ会社を継がせると、基準寝具の仕事に出会い、昭和38年に会社を興し、その仕事を始める。
 ところが創設直後に、トクの夫は急死してしまい、トクが代わりに経営者となる。
 経営がある程度軌道に乗った昭和40年、中学校の特殊学級の生徒を3人、実習生として初めて受け入れた。
 その後、工場が火事に見舞われながらも、再建させ、今度は重度知的障害の子どもを実習生として10人引き受ける。
 次に、精神障害者を従業員として雇い入れる。
 こうしてトクは、知的障害者精神障害者を次々に雇うものの、「私ははじめから計画や見通しをもって障害者を雇い入れたわけではないのです」と述懐する。
 中には、「渡辺はあの人たちを安く使って金儲けをしている」と、心ない陰口をたたく者もいたが、そのような風評にも挫けることなく障害者の雇用を続けた。

 「第三章 一歩一歩」
 特別の考えがあるわけでもなく、トクは頼まれた障害者は、次々と引き受けていた。それは、企業経営より障害者の自立を優先した結果である。
 ところが、折角障害者を雇用しても、当の障害者は病院と違って、働かなければならないために、それを嫌う者もいた。
 また、障害者の親も始めはどこへも行き場がないのでお金はいらないと言っていたものの、いざ雇われてみると、自分の子供を他人と較べて賃金が低いと苦情を訴える親もいた。
 そんな苦情にも耐え、障害者同士が気兼ねなく共同生活を送ることができる寮を、2つも建設することに、トクは成功する。
 経営面では、大手の商社が基準寝具市場の占有化を目指し、新潟県に乗り込まれたこともあったが、良心的な医師によって、市場を守ることに成功した。 続きは、らん丈の「らん読日記」⇒http://www.ranjo.jp/cgis/randoku/index.html