「佐藤優(外務省元主任分析官)二審も有罪」

 外務省関連の国際機関「支援委員会」に対する背任と、国後島ディーゼル発電施設工事をめぐる偽計業務妨害の罪に問われた、佐藤優被告=起訴休職中=の控訴審判決が、今日、東京高裁でありました。
 裁判長は、佐藤被告が支援委に損害が生じると認識しながら海外要人の利益を図ったと指摘し、懲役2年6ヶ月執行猶予4年とした、一審・東京地裁の有罪判決を支持し、佐藤被告の控訴を棄却しました。⇒http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070131it04.htm

 佐藤優さんとぼくは同じ年齢ということもありますが、それ以上に、保釈後の、言論界での発言には一々納得することがあるので、この裁判の行方には興味があります。

 たとえば、佐藤さんは『獄中記』(岩波書店)では、「絶対的なものはある、ただし、それは複数ある」という。
 そこでは、日本国家と、キリスト教と、マルクスとがそれぞれ絶対的なものとしてありつつ、並立できるのです。

 佐藤さんは、朝日新聞1月14日と21日の読書欄で、“たいせつな本”として、宇野弘蔵『経済原論』とヘーゲル『歴史哲学講義』を挙げていますが、『経済原論』のコメントで、“人間が人間を抑圧したり搾取する資本主義社会よりも階級対立を廃絶し、平等を担保した社会主義社会の方が、イエス・キリストの教えに近いと感じていたから、キリスト教の洗礼を受けたものの、マルクスから離れる気にはどうしてもなれなかった。”と記す。

 そこで引用する宇野は、こう記している。
 「社会主義の必然性は、社会主義運動の実践自身にあるのであって、資本主義、資本主義社会の運動法則を解明する経済学が直接に規定しうることではない」と。
 これによって、佐藤さんは、『資本論』の論理に立ちながら、キリスト教徒であることに矛盾を感じなくなったそうです。

 ぼくもキリスト教徒として、『資本論』を立教大学経済学部で学んだので、この言葉は、深く胸に沁みこんだ次第です。