「『社会哲学』のレポート」

 今日は、町田市中町中央町内会館で落語をした後、早大大学院で田村正勝教授の『社会哲学』2⇒のhttps://www.wnz.waseda.jp/syllabus/epj3041.htm?pKey=3911010001012007391101000139&pLng=jp&pPage=1講義があり、そこで、らん丈は発表の当番でした。
 内容は、下記の通りです。

『見える自然と見えない自然』環境保護・自然の権利・自然哲学
                      田村正勝著(行人社、2001年)
担当:社会科学研究科 政策科学論専攻 修士1年 三遊亭らん丈
序文
〔梗概〕
 環境保護NGOなどが、自然を護るための訴訟を起こした。その際「原告適格なし」という理由で、そのほとんどが門前払いされてきた。
 しかし「自然の生存権」が承認されれば、われわれは自然の代理人として、代理訴訟を起こすことができ、法廷はこの「自然の権利」の侵害について、実質審議に入らなければならなくなる。
 じじつアメリカでは、「モートン判決」において、ダグラス判事の少数意見ながらではあるものの、「自然の権利」が可能だとする法理論が展開された。
 本書は、この「自然の生存権」より端的な「自然の権利」を、いっそう根本的に「自然哲学」によって根拠づける試みである。
 そこから自然環境保護の理念を、実践的かつ具体的に展開する。
 その際、近代文明の中核にある自然観、「機械論的自然観」を、徹底的に反省しなければならないと著者は説く。
 「機械論的自然観」とは、自然現象を「因果論」的に解釈するという意味のタームである。
したがってそれは、無数の自然現象をバラバラに切り離して、それらの各部分が、あたかも機械のごとく相互に関係していると理解する考えに基づく。

 これに対して近代以前の自然観においては、個々の自然現象の背後にあると思われる「全体自然」が、最重視されたという。
本書の根底を支える思想であるドイツ自然哲学は、諸現象の背後で共通に働いている「自然の力」あるいは「永遠の生命の流れ」を検討してきた。
 したがって本書は、すべての現象に通底する「永遠の生命の流れ」があるものとして考察されている。

 本書第一章では、哲学を援用し、集合的な力である普遍性や共通性に光をあてて、タイプ分けし、その意味を解明する。
 第二章は、ドイツ自然哲学の系譜を考察し、哲学の意義を明らかにする。
 フランスの大陸合理論とイギリスの経験論の後を追うドイツ哲学は、自我の哲学から、自我の背後にある普遍性を掘り出し、これを提示する哲学であり、それを実践したカント、シェリングヘーゲルフッサールハイデガーらの足跡を浮き彫りにする。
 第三章では、「自然観と技術観の関係」を、哲学的にではなく、社会的および歴史的に考察する。
 これによってドイツ自然哲学の背景と意義が、さらには自然哲学による「自然の権利」の基礎づけの意義も、よりいっそう明らかにされる。
 最後に補論では、第二章および第三章の全般に関係する研究会報告と、それに対する質疑応答を掲載する。

〔検討〕
1、 著者は、「永遠の生命の流れ」を、ドイツ自然哲学を援用することによって、それ
を解明しようと試みるが、p.5の第3パラグラフで、ドイツ自然哲学と同じように、仏教も、人間と自然との関係を「存在論的」に深く考察している、と記している。
このことから、ドイツ自然哲学と仏教とは同じように、人間と自然との関係を捉えていることがわかる。
 ならば、日本人には、ドイツ自然哲学よりはるかに人口に膾炙している仏教をもとに、人間と自然との関係を「存在論的」に考察したほうが、日本人の読者には説得力と親密性が増したのではないだろうか。

2、「人間の実生活は、科学的な因果論より、形而上学的な物語に、より広範囲に影響されていると言えるから、人間は、本質的に形而上学的思考の動物である。」と、著者は記す。
 しかしこれを、「人間の実生活は、科学的な因果論によって規定され、形而下的な物語に、より広範囲に影響されていると言えるから、人間は、本質的に形而下的思考の動物である。」と書き換えても、なお、そのとおりだ、と思わせる人間がいるのではないかという疑念を、評者は抱く。
 以下こちらに続く⇒http://www.ranjo.jp/cgis/randoku/data/1177035919.html