「侮れない町田」

 まちだ史考会という歴史サークルが町田にありますが、その会報「いしぶみ」に寄稿しました。
 それを転載します。

読書会「この国のかたち」について

 この読書会は、司馬遼太郎が祖国に抱いた想いのエッセンシャルを抽出し、ほどよく稀釈したかのような遺著、『この国のかたち』を輪読するものです。
 毎月第二月曜日の午後一時半から四時半まで、町田市民フォーラムの活動室に集い、二人の担当者がそれぞれ割り当てられた一単元ごとに発表をいたします。
 ぼくはその新参者にて、末席を辛うじて汚す者に過ぎないのです。
それにもかかわらず、今回発言の機会を頂きましたので、まず申し上げたいのが、発表の際に配布される資料の多さと、その種類が多岐にわたっていることです。
 たしかに、今やインターネットで広く資料を渉猟できるようになったとはいえ、現地に足を運ばない限り決して手にすることはできないパンフレット等も配布物の中に含まれ、その尋常ならざるボリュームにはいつもながら驚かされます。
 つまり、参加者、担当者の知的好奇心の大きさ、深さに毎度めまいを惹き起こされそうな思いに捉われるのです。

 驚きは、そればかりではありません。その資料や『この国のかたち』を巡って参加者の間に取り交わされる活発な議論も、じつに刺激的です。
 なるほど、そんな見方、考え方があったのかと、蒙を啓かれることが少なくないのです。
 それにしても、まぁ、皆さんよくぞ、そこまでお調べになったと感心させられるのです。

 ですから、毎月第二月曜日の読書会が巡ってくるのを、楽しみにしているのですが、残念なことに、議員であるため、当然ながら、議会開催中はもちろん読書会には参加できません。
 それに加えて、ぼくは大学院に通う学生でもあるために講義と重なる場合には、講義優先とならざるを得ないのです。
困ったことに、今どきの学生は、昔と違って、じつによく授業に出席するのです。まして、大学院ともなると、一講義あたりの学生が極めて少ないため、欠席するわけにはいかないのです。

 それでも昨年度は、月曜日の講義を履修しなかったため、議会が開議されていない場合には参加できたのですが、今年度は、前期では月曜日の午後一時からの講義を受講せざるを得なくなり、本当に残念なことに、休講にでもならない限り、八月までは、この読書会には参加できなくなってしまいました。
 そのため、四月はぼくの担当だったのにもかかわらず、参加できなくなってしまったために、やむなくレジュメを鈴木会長宛にEメールでお送りし、代読をお願いした次第です。

 ただ、ぼくのレジュメは、お恥ずかしいことに、皆様のレジュメの量でいえば、半分にも達していないというお粗末なものに過ぎないことも、あわせてお詫び申し上げる次第です。
 以上、お詫びばかりになってしまいましたが、ここで趣向を変えて歴を考える史考会らしく少し町田の歴史に思いを馳せてみたいのです。

 というのも、今年(二〇〇八年)は、町田市が誕生してちょうど半世紀を迎えるという記念すべき年なので、町田を巡る逸話をご披露したいのです。
 町田は、近代になってからは、かなりの頻度で歴史の表舞台に登場しますが、たとえば、多摩の自由民権運動では、町田がその中心の一角を占めました。

 それを担ったのが、石阪昌孝ですが、その娘美那と結婚したのが、近代文学を語る上で欠くべからざる、北村透谷でした。
 日本の近代文学を語るうえでは、樋口一葉も欠かすことはできませんが、一葉が生涯独身を通したのは、他ならぬ町田をふるさととする渋谷(坂本)三郎が一因だったというのは、御存じでしたでしょうか。

 渋谷三郎は、一葉の父親からの依頼を受け、それを承諾したものの、父親が亡くなり、一家が困窮すると、渋谷から破談を持ちかけ、それが成立した経緯があるのです。
 その後、渋谷から年賀状が届くと、一葉は日記でこんな歌を詠んでいます。
  忘れぬも さすがに嬉しからころも 妻にといひしなりと思えば

 その後渋谷は、東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業し、同校初の海外留学生としてドイツに留学し、帰国後、教員となり民法を講じました。それに止まらず、渋谷は秋田県知事、山梨県知事を歴任しました。
 このように、町田はなかなか侮れないのです。

 話を戻して、丸谷才一司馬遼太郎評をもって、小稿を閉じたいと思います。
 司馬遼太郎という人の文章は、かなり一国の文化に対して影響力が強かったと思うんですね。ああいう調子でものを考え、ああいう調子で文章を書けば、かなり広い範囲にわたって、普通の口調で語りかけることができる。『日本語の二一世紀のために』(文春新書、七四ページ)