『「にくい」から「づらい」へ』
『「にくい」から「づらい」へ』とは、文藝春秋2007年1月号に掲載された、高島俊男さんの随筆のタイトルです。
それは、朝日新聞の社説に<敬語の指針―かえって分かりづらい>という見出しがあった、というところから筆を起こしています。
これは、少し前までならば、「かえって分かりにくい」であったろう、と続きます。
たとえば、「聞きにくい」と「聞きづらい」とは、同義ですが、このような違いがあるのではないか。
「話が聞きにくい」―話し手の声が聞きとりにくいばあいが多いようだ。
「話が聞きづらい」―たとえば親戚や朋友の悪口に満ちているなどのために、はたで聞いていてイヤな感じがすることを想像させる。
このように、「…にくい」は状況的困難にかたむき、「…づらい」は感覚的困難にかたむく。
また、「…にくい」は昔からある日本語、「…づらい」は若い人たちのあいだから出てきた言い方。
いまの若い人は、客観的条件よりも自分の感覚を事態の中心と見る傾向があり、それを表明するのを好む。
つまり、若い人にとっては、「わかりにくい」ことより、それが自分にとって「わかりづらい」ことのほうが中心なのであろう、と結論づけていますが、いつもながら、高島さんの言葉を媒介にして世相を斬るその切っ先は、一向に衰えをみせません。