「幸福体験」があるから、人は生きられる

 昨日の、続きです。

 「人の一生は重き荷を背負うて遠き道を行くがごとし」、と徳川家康は認識していたようですが、そこまでいかずとも、己の人生を振り返ったときに、なんら苦労らしい苦労はなく、面白おかしく気ままに生きてきた、とお気楽な感想を持てるのは、ごく僅かの方々に留まるはずです。

 また、年間に3万人超の方々が自裁する日本においても、それでも自殺する方々は、全人口から見ればそのごく一部に過ぎないのです。

 では人は、どうして、このさほど楽しいことばかりあるわけでもない人生を、自ら投げ出すことなく、生きていくことができるのか。

 それは、「幸福体験」だと、ぼくは思うのです。

 たしかに、今は辛く、厳しい、けれど、来し方を顧みると、楽しい思い出もある。
 心に秘めていた初恋の人との初めての心躍る、デート。受験に合格した喜び。初めて食べた、レストランでの本格フランス料理の美味しさ。長編小説を読みきったときの感動と充実感。初めてもらった給料で買った彼女へのプレゼント。

 このような「幸福体験」があるからこそ、人は困難に立ち会ったとき、それをよすがに、生きていくことが出来る、というのです。

 これは、ぼくの実感です。

 たとえば今日は、ボランティア活動の一環として毎月お邪魔している、町田市成瀬台にある「ケアセンター成瀬」での高座がありました

 そこで拝見する、利用者さんのお顔のうち、実に嬉しそうな表情の方がいらっしゃったのですが、高座を下りてきくと、その方にとって落語を聞くことは、ある幸福な思い出と直接結びつくから、とおっしゃるのです。

 正しくこれだな、と思ったのです。
 その方にとっては、落語を聞くことは、その楽しかった時間を再びまた、生きていることに他ならないのでしょう

 だから、あのような笑みをたたえることが出来るのだと、ぼくは確信したのでした。